初代三太郎は弘化四年(一八四七年) 江戸深川に生まれ、初世杵屋六四郎の弟子で士族の出身でした。
明治四年以後は駿府にて徳川慶喜(第十五代将軍)に仕え、その姫君、後の有栖川宮妃殿下の三味線のお相手もしたとされています。
明治二十四年には西川鯉三郎師を頼って名古屋へ移住し、長唄の師匠となり、古曲の保存や弾弦楽の研究に努めました。
大正五年初代古稀の折には、東区代官町の桜通沿いにあります永平寺別院に、三味線の胴の形をした寿碑を建てています。寿碑とは、生前に本人の寿を祝して建てるもの。先日も一門にて見学して来ましたが、縦一一八cm横一〇七cm厚さ二〇cmの大きな寿碑の存在は、私どもに誇りと勇気を与えてくれます。
大正11年秋、御園座にて、三太郎の名を六世杵屋三郎助(後の初世稀音家浄観) の弟子に譲り、自らは三叟と改める記念演奏会を行いました。長男には「長唄で飯食うべからず」と芸人の道を歩ませなかったのは、初代が士族の出身だったからでしょう。
大正12年、娘婿のロシア文学者中村白葉邸(東京世田谷)にて初代は没します。その後、初代愛用の三味線「菊の五」 (初世杵屋六四郎の三十三回忌に未亡人から送られたもの)が、中村白葉氏と坪内逍遙博士との話し合いにより、早稲田大学演劇博物館に寄贈されています。
「菊の五」とは、化政期に越前永平寺の床柱から八丁の三味線を作ったうちの一つで、棹の末端に十六枚の菊の花びらの銀象眼が施してあり、その中心に一~八の番号が入っています。初代に贈られたものが五番目で、他に徳川慶喜所蔵となっているものもあります。
昭和十七年川島氏四十歳の時でした。
三代目は二十五歳で初代と死別していますが、初代の古曲採録の遺志を受け継ぎ、襲名二十年後には名取だけでも百二十名を上回る盛況ぶりでした。三代目亡き後、その妻 袈奈代氏が四代を、その娘 清子氏が五代目を継ぎ、五代目の強い要望もあり私が六代目を襲名いたしました。
代々の三太郎が集めた古曲を紐解くことを軸に、微力ながら二十一世紀に名古屋から伝統芸能の新しい風を発信できたらと思っています。
なごや文化情報2008 9月号掲載「隋想」より